ちゃいたんの躁うつ病日記

わたくしこと、「ちゃいたん」(齋藤の中国語発音)がいかにして躁うつ病になり、これまで十九年間、いかにして過ごし、現在どのような状況にあって、具体的に何をどういうふうに考えていののか、をつづったブログ。

2017年9月14日(2)

 今度は、わたしの精神病院の入退院経験について書きます。
 わたしも御多分にもれず、「ドクター・ショッピング」(何度も病院を変えること)を重ねた口ですが、今通院している最後の病院について書きます。 
 その時わたしは、躁うつ混合状態でしたが、「激しい耳鳴り」に悩まされていました。
解放病棟で入院最初の夜、「看護師による患者への暴力行為」を見ました。そのことを翌日女性の看護師長に言うと、「あなた、なにか別のものでも見たんじゃないの?」「何か勘違いしてるんじゃないの?」と一蹴され、こんなキチガイ病院にはいられない、と思ったわたしはその場から裸足で逃走し、交番に行ってそのことを訴えました。交番では、そのことを聞き入れてもらえず、自宅に連絡しても誰もでません。そのうち病院の看護師数人が車でやってきて、わたしはすぐに「閉鎖病棟の住人」になりました。実に理不尽な話で、今思ってみても、「病院側の隠蔽工作」と思わざるをえません。
 この次は、わたしの「閉鎖病棟生活」について書きます。

2017年9月14日

 こんにちは、ちゃいたんです。
 今日は、わたしの病歴について簡単に書きたいと思います。
 時は平成10年までさかのぼります。当時わたしは公立中学校の国語の教師をしておりました。初任校では「生徒指導」にさんざん悩まされていたので、二番目は海沿いの小さな小規模校に希望転勤したのです。
 ところが、いざ転勤したみるとビックリ。その学校は、文部省指定の研究授業校だったのです。それも全校生徒77人による「剣道の授業」。わたしは転勤してすぐに校長室に呼ばれ、「全校剣道」のチーフをやるよう命じられました。わたしが正直に「剣道もワープロもパソコンもわかりません」と正直に言うと、上司は「いいから、教えるから」と言って、無理やりその仕事をわたしに押し付けてきました。
 それからは「地獄」でした。夜の10時まで学校に残り、朝の4時までわたしはワープロのキーを叩きつけておりました。上司は何も教えてはくれず、女の先生などは5時になると「お先に」と言って帰って行くのでした。
 それでも1学期が無事終わり、「全校剣道」の形も整ってきました。しかし、無理がたたったのか、ある日腰が「くの字」に曲がりました。学校を休み、病院で調べてもらうと「ウツ病」によるものだ、ということがわかりました。
 一時職場復帰はしたものの、こんどはわたしの父が平成12年2月に「自殺」をしました。そのショックのためか、わたしは間もなく「躁転」し、躁うつ病患者となりました。
 病院への入退院の経験については、後日書きます。

2017年9月13日

 こんにちは、皆さん、いかがお過ごしですか?
 わたしは、宮城県に住む52歳の男で、「ちゃいたん」(齋藤の中国語発音)と申します。
 わたしの病名は「躁うつ病」です。現在障害者手帳2級を所持し、国と県から障害者年金ももらっております。
 詳しい病歴は後日紹介しますね。
 今日は、わたしが現在毎日飲んでいる薬を紹介いたします。
 まずは抗うつ薬のサインバルタカプセル30mgを2錠、セレッコックス錠100mgを2錠、レボトミン錠25mgを2錠、ハルシオン0.25mg錠を2、ユーロジン2mg錠1、ホリゾン錠5mg1、リフレッスス錠15mg1、ロラゼパム錠0.5mg3、デパケンR錠200mg3、以上の17粒です。
 もう、これらを19年ほど飲んでいるのですから、完全にクスリ漬け状態です。頭の毛は抜けるし、やたらのどが渇いて太るし、インポテンツにはなるし……もう、ミジメとしか言いようがありません。
 わたしの場合は、躁うつ病の特効薬とされる「リーマス」を飲むと、なぜか全身に「しっしん」ができる体質なのです。はっきり言って、主治医も困っている様子。今度、病院を変えてみようかと考えております。今日はこれくらいで、終りにします。では、また!