ちゃいたんの躁うつ病日記

わたくしこと、「ちゃいたん」(齋藤の中国語発音)がいかにして躁うつ病になり、これまで十九年間、いかにして過ごし、現在どのような状況にあって、具体的に何をどういうふうに考えていののか、をつづったブログ。

11月15日 「現在のちゃいたん」

 それにしても、家族や親戚の理解には、とても感謝しています。病院の患者さんの中には、家族の同意が得られず、いわゆる「社会的入院」を強いられている方たちが沢山いるからです。その方たちに比べたら、私は幸せな方だ、と思っています。
 現在私は、4週間に1回、地元の病院に通院。薬を飲み、無理をせず、規則正しい生活を送っています。
 私は文学部の卒業ですから、暇をみては「論文」や「小説」「エッセイ」等を書き、アマゾンキンドルより電子書籍を出しています。また、最近、市内に開所したという国認可の就労移行支援施設に4か月通ってパソコンのスキルを磨き、今こうしてweb上でモノを書いたりして収入を得る、いわゆる「フリーランサー」を「クラウドワークス」中心にやっております。
 薬はおそらく死ぬまで飲み続けなければならないでしょうが、「新薬」の登場も期待しているのです。
 最後になりましたが、私の大好きな作家の言葉を読者の皆様に捧げ、この拙文を締めくくりたいと思います。
‐‐‐‐‐「絶望すればこそ出発」(石川淳)。

11月15日 「退院後」

 そんなこんなで、私は「閉鎖病棟」生活を経て「解放病棟」に移り、やがて退院したのです。しかしながら、もはや持病となった「躁うつ病」は決して完治せず、これまで病休・休職扱いのまま、5回くらい入退院を繰り返してきました。そして、もうこれ以上は学校を休めない、という理由で、とうとう「退職」を余儀なくさせられたのです。その間、当時の校長や上司は1度の見舞いにも来てくれませんでした。私は悔しくて、悲しくて、家族にも申し訳なく、何度も男泣きをしました。
 「躁うつ病」と付き合って、もう19年になります。また、障害者手帳2級を所持し、「労災」とはいえ、国と県から2か月に1回、障害者年金ももらっています。しかし、退院後、これまで何度もパートやアルバイトを経験してきましたが、単に「障害者」ということで、偏見や変なレッテルを貼られることも事実です。私などは、パートの仕事で無視されたり、理由もなしに肩でタックルされたり、暴言を吐かれたりされたこともありました。
 またこの病気は、言ってみれば女性の生理みたいなもので、私の場合、3~4か月周期で「うつ状態」になってしまい(主に「無気力」、「耳鳴り」、「幻聴」、「悪夢」、「早朝覚醒」等の症状に悩まされ、じっとラジオを聴きながら寝ていることが多い。)、薬の副作用のため異常に汗をかき、体重増加・頭皮の脱毛・インポテンツに苦しめられており、いまだに独身です。そのため、なかなか1つの仕事に就労することができずに、ミジメな気持ちになることもありますが、決して悪いことをしたわけではありません。ただ私の場合は、頑張りの限界を超えた果ての病気でした。(つづく)

11月15日 「閉鎖病棟」での生活

 「閉鎖病棟」での生活は、実に悲惨です。何しろ全体的に薄暗くて沈鬱だし、トイレは大便でぐちゃぐちゃに汚れきり、お風呂は週に2回あるのですが、他人の髪の毛やら陰毛やらウンチやアカ等がプカプカ浮いています。当然、外には出られません。眼つき顔つきのアヤシイ患者、裸同然で叫び廊下を走り回る患者、「こんな所にいるんだったら刑務所に行った方がマシだ!」と言って、老人の首をタオルで絞めつける若者だっています。
 食事は味付けも薄く、「白身ザカナ」ばかりで、はっきり言ってマズイし、楽しみと言ったら2時間おきのタバコ1本と(今現在は完全禁煙です。)、週1回の「おやつ」のみです。「解放病棟」のように自由に外へは出かけられませんし、「作業療法」もありません。TVはあるのですが、いつも他の誰かが独占しており、あとはただ薬を飲んで食事をし、ベッドに寝ているだけです。主に症状が重い患者さんが多く、何かトラブル(例えば自傷等の行為)があれば、別室の鉄格子に囲まれた「個室」に封じ込められます。
 看護師の中には、色々なタイプの人間がおりました。食事中、「まず、野菜から食べなさい!」といつも叱るオバチャン看護師や、「そのうちきっといいことあるよ……」と慰めてくれるベテラン看護師。退院する時は、「もう、2度とこんなところへ来るんじゃないよ」と励ましてくれる優しい病棟長さんもおりました。(つづく)